オナ禁教

禁欲をすることで性欲をはじめとする煩悩を超越し、人生を充実させることを目的とする場

なめくさりやがって

FがRとSと僕の4人で飲みに行こうと提案してきた。この期に及んで何言ってやがる。お前らは僕を出し抜いて何度もデートした仲じゃねぇか。僕はもう事実上二人から振られたようなものなんだ。RにとってもSにとっても人生において不要な人間だという烙印を押されたんだよ。どんな顔して負け戦にのこのこ行って楽しめって言うんだ?

それともなんだ、また僕を養分にでもしようとでもいうのか。クソ野郎どもが。

カラオケなら、カラオケならFを瞬殺できるのに。ちくしょう。ちくしょおおおおおおおおおおぉおぉぉぉ。

この世界に僕が勝負できる場所があるのだろうか

前回の記事でありがたいことに、アドバイス的なコメントを頂いたので、そのことについて考えてみました。

id:xiao_xiao_liuさん
なんとなくだけど今までの街コン戦歴を拝読するに、クソログさんは勝負する場所を間違えてる気がするぞ。なんていうのが適切か分からないけど、もっと文化度高い系女子が多い集まりとかの方がいいんじゃないかな。SさんとRさんも文化度の高かったら申し訳ないけど。

皿 あらい (id:aphoptosis)さん
街コン、合コンは相手の女性というより男性陣のバランスによっても、成功率が変わってくるように思います。
仲の良い友人でも、おとなしい人と行くとパスを拾って貰えず盛り上がらないし、陽気で下心満載のイケメンと行くと可愛い方の女性をを根こそぎやられる。

ボケが強すぎても、ツッコミが上手すぎても漫才に成り立たない。Fさん以外の人と参戦したら、また違う結果ぎ返ってくると確信します。

文化度高い系女子・・・か・・。文化度が高いってなんだろう。教養があるといった感じだろうか。はてなブロガーでいうとチェコ好きさんみたいな人かな。
はっきり言って僕自身が文化度高くないのでなんとも・・。

ただ、例えば同僚のFは本とか人生で一冊も読んだことがない典型的なマイルドヤンキーで、そういう意味じゃ僕とタイプが違うのかもしれない。Fは自分の体験からしか物事を語らないし、どんな話もほとんどが自分の体験したことに収束していく。それがFの強みでもあるし、おそらく限界でもある。RもSも職業は医療系で僕やFよりも学歴も高くおそらく地頭も良いのだと思うが、仕事に関する本以外は読まないタイプだった。たぶん読む必要が無いのだろう。
そのことで彼女らの文化度が高くないと言っていいのかはわからないけれど、id:xiao_xiao_liuさんの指摘はなかなか鋭いと思った。

僕は悩み多き人間で、日常が苦痛だらけで、そこから心の抜けや救いを得るために、多様性が確保されている文学の世界が必要だった。だが、実際そんなものは恋愛において糞の役にもたたないことは身をもって知っている。だが、もしかしたら、この世界には文化度高い系女子の集まりみたいなのがあって、僕が勝負できる場所があるのかもしれない。

皿 あらい (id:aphoptosis)さんの仰られているように、一緒に参加する人によって結果は変わっていたのかもしれない。ただ僕はもう少し僕自身の価値を高める努力をする必要があるのだと思う。
おそらく当分、Fと街コンに参加することはないだろう。F自身もその必要はないだろうから。

なんのことはない。何も無い人間がまた何も無い状態に戻っただけだ。当分街コンの参加自体も控えようと思う。いきなり年収を増やしたりは難しいけれど、自分の出来ることから少しずつやっていきたいと思う。

僕は、「やりたいことが見つからない」という相談を受けた時には必ず、「僕なら、3キロのダイエットをして、その体重を維持してみるよ」と返すようにしている。
3キロ痩せるには食生活を改めなきゃいけないし、そして痩せたまま体重を維持するには帰り道は一駅手前で降りて歩かなきゃいけないかもしれない。面倒だし、あまり居心地が良いとは言えないよね。ただ、それによって何が変わるかというと、入ってくる情報が違ってくる。


とりあえず、一番痩せてた頃にまで体重を落とすのを目標にしよう。今の僕は贅肉がつきすぎている。痩せればテストステロンも分泌されるから気分も変わってくることを期待したい。

笑いたきゃ笑えよ

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どうやら会社の同僚Fは街コンで知り合った女の1人、Rとうまくやっているようである。既に何回か会って、二人で一緒に食事をしたり、夜景を見に行ったり、恋人さながらのデートをしているようである。

この様子から察するに、最初からRはFを目当てに二次会に参加してくれたものと思われる。街コンで知り合ったもう一人の女Sは友人であるRについていく形で二次会に参加してくれたというだけのことだったのだろう。ただそれだけなのに僕は「これがオナ禁の力なのか?」「いつもと違う手ごたえ」などと1人で勝手に舞い上がっていただけに過ぎなかったのだ。なんて間抜けなんだろう。とんだお笑い草である。

4人分の二次会の飲み代を年上である僕が全て支払って、養分になっただけだった。
何が「次は私たちが支払いますから、また遊びに行きましょうね」だ。「次」なんて最初から無かったんじゃねぇか。それをお前らは優しい嘘だって言うかもしれないけど、本音を言わないことで自分を守ってるだけじゃねえか。

LINEのやりとりにしてもRはなかなか狡猾である。こちらが何か話題を出すと、既読無視はせずに必ず何か返信はしてくる。ただ、こちらが返信に窮するというか、話題を膨らませないような返答なので、こちらが既読無視せざるを得なくなる。そうすることで「あなたには興味はないけど、既読無視をするような嫌な女ではない」と自分を守っているのだ。
一度、FとRのLINEのやりとりをFに見せてもらったことがあるが、僕とのLINEの温度差に愕然とした。

Sは誘ってもスケジュールが合わないの一点張りで、LINEも既読無視がちなので、何も期待できないだろう。こちらから送るばかりで、向こうからはLINEが来ることもない。

僕は、別に支払いだの割り勘だのなんてどうでもいい。ただ、一度くらいは会って話してみたかった。ただそれだけなんだ。 

止まった時計

ちるろぐのチルドさんがブログで「努力したら負け」と言っていた。努力が報われたことのある人や、報われる可能性がある人からは絶対に出てこない言葉である。僕とチルドさんは似ているのだ。

このブログにはクソログよりも割とコアな読者が多いから、今日は僕の過去について書いてみようと思う。
こんな僕にも希望に満ち溢れていた頃があった。
かつて僕は傍目には安定して、社会的ステータスや収入もそれなりにあり、嘲笑や侮蔑とも無縁な職についていたことがある。学生時代はその職につくためだけに、勉強していたおかげで就職氷河期もものともせず新卒でその職に就くことができた。希望に満ち溢れていた。だが、その後に待っていたのは屈辱にまみれた地獄の日々だった。
毎日のように怒号と罵声を受け、自尊心を傷つけられた。時には蹴られることさえあった。ありふれた話ではある。
そして入職1年目、査定の面談で「君は普通の人よりも劣っているから、人よりも何倍も努力しなければ、普通の人と同じ水準にまで到達しない」と告げられた。続けて「君はまだ若いから他の道もあるんじゃないか。一週間時間をやるから答えを聞かせてくれ。」とのことだった。今まで接したことがないほどの優しい口調。事実上の解雇通告だった。

普通の人よりも何倍も努力して、突き抜けられるならともかく、やっと人並みになれるに過ぎない。どんなに努力したところで群衆の1人でしかない。だったら、努力なんてしない方がいい。その仕事に一生を賭けたいとも思えなかった。
インターネットの功罪の1つは、他人の人生を容易に可視化できるようになったことだろう。そこには努力することで突き抜けられる人が映し出されていた。
かたや僕は落ちこぼれでどんなに努力したところで、平凡になれるのがやっとの低能の未来しか残されていなかった。


1週間後、僕は退職願を提出した。安定も収入も社会的ステータスも捨てた。そして、僕は努力することをやめた。それからはなんのキャリアにもスキルにもならない代替可能な仕事を続けている。

その選択をしたことに後悔はない。未練もない。遅かれ早かれ、潰れていたことだろう。ただ、そのころから僕は致命的な不全感を抱えているように思う。未だに自分に自信を持つことができないのはそのためだろう。株で一山当てるとか、小説で賞を取るとか荒唐無稽な一発逆転思考が頭をもたげてくる。馬鹿は死ななきゃ治らない。時計は止まったままである。

たとえ女から嫌われても、弱くても、ありのままでいたかった。

この世界が残酷だということを僕は知っていた

僕が人を信じることができないのは、つまるところ自分に自信がないからだと思う。自分を信じることができないから、同じ人間である他人も心から信じることができない。

 

他人を信じることができないから、他人から愛されることもない。誰からも愛されないから、自分に自信が持てない。自分に自信が持てないから他人からも愛されない。そのような出口のないループに絡め取られている。出口のないループの中でどうすることもできないという無力感に苦しみながら、身動きできないまま酸のように腐敗していく。

 

一方、自分に自信がある人間は魅力があるので、人から愛される。人から愛されるから、自分に自信が持て、卑屈感の無い魅力的な人間になり、ますます愛されるようになっていく。

 

恵まれた人間はそのことに無自覚に、恵まれた人間同士の繋がりの中で、ますます豊かになっていき、何もない人間は何をしても報われない無力感に苛まれながら、じわじわと圧死するような日々を強いられている。

 

この残酷な現実にどう立ち向かえばいいのだろうか。

人間の持つ優れた資質とは。優れているとはどういうことなのか。


今の世の中、勝った負けたで姦しい。直接的ではないにしろ、優れた人間が勝ち、劣った人間は負け不幸になる、といった旨の言葉がインターネットでは四六時中飛び交っている。

そうした社会の価値観もあって、容姿、財力や体力や知力といった能力などを他者と比較し、劣等感に苦しみ苛んでいる人も少なくない。

それは今の資本主義社会では、企業や社会が人々からお金を引き出すために、人々の欲望を刺激するからである。例えば「もっと賢くなりましょう」という教育産業や「もっと美しくなりましょう」という化粧品会社など、欲望を刺激するために「こういったことが幸福なんだ」と決めて、それを基に競争させようとする。そうした情報が常に飛び交っているため、どうしても容姿、知力、財力といった画一的な価値観にとらわれがちである。

そして、そうした画一的な価値観に捉われてしまうと、容姿、知力、体力、財力といった手の指で数えらえるほどの価値観の中で一つも達成できない人というのは、自分のことを何の取柄もない駄目な人間だと思い込んでしまう。
だが、そうした社会的な価値観は不変のものではなく、日本でもそう遠くない過去には戦争を賛美するような社会的価値観もあったし、さらに遡れば武士に殺人の特権が認められていたような時代もあった。いずれも今では全く考えられないような価値観が平気でまかり通っていた。
すなわち、現在我々が重要だと思い込んでいる価値観はメディアや企業が欲望を刺激するために創りあげた一時的で不確かなものでしかないのだ。

また、容姿、知力、体力、財力といった長所もその人個人の努力だけで手にしたものは一つもないと言えるのではないだろうか。例えば容姿は自分を産んだ両親が物凄く努力したから得られたものではないはずである。知力や体力、財力にしても、努力だけではなく、ある程度の才能があったからこそ努力しようとしただろうし、細かく分析していけば「努力することができる」といったこともある種の才能ともいえるし、家庭環境に恵まれているなど努力できるだけの土壌が備わっていたからこそ努力できたといったこともあるだろう。

この世の中のどんな人の長所も、純粋にその人だけの努力だけで得られるものはほとんどなく、巡り合わせで手にすることができただけに過ぎない。

では、真に優れているとはいったいどういうことだろうか。人間だけが後天的に獲得できる優れた資質、それは「優しさ」ではないだろうか。「優れる」という字には「優しさ」という意味もある。優しいということは優れているということなのだ。自分だけの利益、富を得る、異性を射止める・・そんなことは他の生物、ゴキブリだってやっている。
だが、利他的な優しさ、慈悲の心だけは人間だけが持ちうる資質ではないだろうか。

これから急速に発展するであろう人工知能が我々の生活を一変させると説く識者は少なくない。それは現在の我々の価値観を根こそぎひっくり返してしまうほどの衝撃である。どれだけ本を読んで知識を蓄えようと、人工知能には全くかなわなくなってしまうことだろう。人工知能が人々の労働を代替するようになれば、財力の多寡も意味をなさなくなるかもしれない。知力や財力といった画一的な価値観しか持たない人は自分より能力の高い人工知能の登場と共にアイデンティティを見失ってしまうことになるだろう。

そうなったとき人間の持つ他者を思いやる優しさ、人間だけが持つ慈悲の心、そうしたものの本当の価値が見直される日がくるのではないだろうか。

経過報告

街コンで知り合った二人の女性との経過を記しておく。

R(26):会社の同僚Fに完全に奪われる。ブロックはされていないが、LINEの感じだと僕には全く興味ない様子。脈なし。

S(26):RよりもLINEのやりとりが続き食事の約束もしたが、仕事のシフトがまだ分からないからと日程を決めさせてくれない。連絡待ち。脈なしの可能性大。

M(36):街コンで知り合った女性ではないが、過去に何度かデートには行ったことがある。付き合うには至っていない。この度、複数日お祭りデートに誘ってみるものの仕事を理由に断られる。たぶん脈なし。

こんな感じで、なんかもうどうでもよくなってきた。
就職活動で自殺する大学生の気持ちが少しだけわかったような気がする。何度も何度も「お前はなんの価値もない不要な人間だ」と扱われ続ければ死にたくもなるだろう。
小学生の頃、図書室で読んだ「楽しい野球(故・小林繁氏)」という本に「人生のバッターボックスに立ったら、見逃しの三振だけはするなよ。」と書かれていて子供ながらに衝撃を受けたのを覚えている。
「見逃し三振だけはするな。」つまり、挑戦しろということである。だから俺は俺なりにできるだけのことはした。クソみたいな手持ちカードで。でも、どんなにバットを振ってもかすりもしない。それどころか打席に立つことさえままならない。俺には最初から無理な話だったんだ。

孤独を受け入れろ。孤独を受け入れないと大人になれない。大人になれないガキばかりの国で大人にならなきゃなンねェーンだ。


俺は金と顔との生存競争に敗北した。俺の遺伝子は淘汰され、跡形も無く消え去ってしまうだろう。
仮に淘汰されなくても「自分は死んでも、自分の遺伝子は子供に引き継がれる」という見解は厳密には間違っている。
なぜなら「遺伝子が我々の複製をつくるためにある」のではなく「我々が遺伝子の複製をつくるためにある」からだ。

人の遺伝子は、ランダムにかき混ぜられ、その上、子供には二分の一しか伝わらない。この度合いは、孫には四分の一、ひ孫には八分の一といったように徐々に薄まっていく。ある人から5世代後にもなると、その人の遺伝子と重なるのは32分の1にすぎなくなるから、もはや共通点があるかどうかを見極めることすら困難になる。
我々の遺伝子自体は不死身かもしれないが、特定の個人を形成する遺伝子は崩れ去る運命にある。エリザベス二世は、ウィリアム一世の直系の子孫だが、彼女がいにしえの大王の遺伝子を一つも持ち合わせていない可能性は大いにある。繁殖という過程の中に不死を求めても虚しいだけだ。

引き継がれるのは「利己的な遺伝子」で「自分の遺伝子」といえるものは、どんどん薄まっていくばかりである。遺伝子を引き継いだところで、自分が生きた証など残りはしない。所詮我々は子孫からは消え去る運命なのだ。

だが、たとえ俺の遺伝子は残らなくても、オナ禁教という文化遺伝子は残り続ける。オナ禁教というミームは永遠である。



小林繁の楽しい野球〈投手編〉 (ジュニア・スポーツ・セレクション)

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